広島城
築城年 慶長4年(1599)
幕末(慶応3年)の城主 浅野安芸守茂長
石高 42万6000石
所在地 広島市中区基町
112万石の大大名毛利氏の居城として、毛利輝元が築いた大城郭。
天守は、三重三階の小天守二基を従えた五重五階で安定感にある優美な美しい形状で築城時は日本一の大きさを誇った
■CG復元 広島城
112万石の大大名毛利氏の居城として、毛利輝元が天正17年(1589)に築城をはじめ大田川のデルタである中州の上に島普請とまでいわれた砂地に土固めの基礎づくりより初め、壮大な城と城下町をつくりあげた。天守は、三重三階の小天守二基を連結した五重五階で安定感に富み千鳥破風の優美さは華頭窓とともに桃山建築の華やかさが表れている。
連結式天守群は当時城郭建築史上最大の壮大なものであった。
完全な平地に立つ平城で郭内の有効面積は極めて広く大軍を収容でき、平城の能力が生かされた大城郭である。広島城本丸二の丸復元(遺構 石垣)
■特徴
1582年本能寺の変で信長が倒れたとき、毛利輝元は備中松山城で対峙していた豊臣秀吉と和議を結び秀吉は並居る諸将よりいち早く光秀打倒の戦をはじめ、光秀を滅ぼす。結果的に秀吉の天下統一に力を貸した。それゆえ秀吉政権の中で五大老の一人として重要な位置を占めることになる。その後秀吉の招きで1588年数千人の供を従え3ヶ月にも及ぶ京大坂への大旅行をする。広島に帰って広島城の築城を始める。京大坂での見聞を生かした大坂城・聚楽第を模した大城廓が生まれる。天守は、築城時は天下一の大きさであった。
しかし関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となり、戦わずして敗北する。10年を掛けて築いた毛利輝元の会心の傑作広島城は1599年完成するが、翌年1600年には広島を去ることとなる。
次に、1600年福島正則が、関ヶ原の軍功により49万石の領主として広島城入りをする。引き続いて広島城の整備も行われた。有力大名として嫡男と将軍秀忠
の養女との婚儀もおこなわれる。しかしこの縁は成功せず、将来のお家の安泰のための婚姻は失敗に終わリ満天姫は江戸に帰ってしまう。
そして外様大名改易のパタ−ンとなる。2代将軍秀忠の権威が見せ付けられる。無断で城の改修を行い、武家諸法度(ぶけしょはっと)に違反したとのこと。この法律により改易されたのは福島家のみだったが。徳川の世は武力よりは法で治めると示したのだ。福島正則は改易され広島を去る。
次に浅野氏が、42万石で広島城入りをする。和歌山城主だった初代藩主浅野長晟は、家康の娘振姫と再婚し、嫡男に恵まれる。その子が生まれて、2年目広島へと栄転した。
徳川家と縁続きになり次期藩主にふさわしい後継者に恵まれることは非常に幸運である。
藩主浅野長晟の母は、秀吉の正室北の政所の妹だ。秀吉ゆかりの外様大名は些細な落ち度で改易されるという嵐の中で生き残るための大きな宝物を得たことになる。
振姫はすぐに亡くなるが嫡男は、次期藩主としてふさわしく育ち、安芸広島は、明治まで、浅野藩として続く。
明治以降も、広島城はそのまま、日本の重要軍事基地として、存在感を増していく。軍隊の駐屯地として平地で広大な面積があり、大本営が置かれた時期もあった。アジアへの出撃地ともなり、呉とともに軍事の重要拠点都市となる。そしてこの地に原爆が落とされる。
■見所
堀を廻りながら眺める天守はすばらしい。どこから見ても美しい。そして二の丸から本丸へと進む。軍事要塞としての緊張感はなく、おおらかな城。都市の真ん中にあるが木々の自然に囲まれた静けさと落ち着きのある本丸だ。本丸・二の丸が残っているだけで、広大な三の丸・堀は都市化され想像できないが。