浜田城

築城年 元和6年(1620)
幕末(慶応3年)の城主 松平出羽守定安
所在地 島根県浜田市殿町
石高 6万石
三方を天然の外堀に囲まれた堅固な名城
幕末の藩主は15代将軍・慶喜の実弟であり、長州藩の近くの親藩小藩の持つ厳しさがあった



CG復元 浜田城 

石見国の中心の地であり、三方が天然の外堀を形成する要害であった。本丸内には天守以外に櫓はなかった。浜田城全容復元(遺構 石垣)

■特徴

 築城者とされる古田重治は、1619年浜田5万4千石に国替えとなり,1620年から1623年にかけて現在地に築城した。古田重治は、豊臣秀吉に仕えて近江国日野を領した古田重勝の弟です。古田重治は、1595年小田原合戦の軍功により2万石加増され松阪城3万5千石を領し松阪城の大改修を行った。城造りの経験豊富な武将です。関が原の戦いでは、東軍に属し生き残り、松阪は紀州藩領となり、古田家は、浜田に移る。かつて吉川家なども陣屋をおいたとされる鴨山に古田家が新たに築城したものです。
浜田城は、秀吉時代の築城経験を踏まえて、徳川幕府の意向にも留意して古田氏の精一杯の力を込めて築城した自慢の城でした。徳川幕府が安定した時代での築城ゆえ、軍事的機能より、城下の人々にとって力強い領主の存在を広く示す象徴としての、威厳を持った近世城郭を築いた。三方を天然の外堀に囲まれた堅固すぎる名城が完成する。外様大名古田家は、1648年に古田騒動を起こして滅んでいまう。

待ち構えたように1649年播磨国山崎藩より親藩大名松平(松井)康映が5万石で入封。5代にわたって在封の後、1759年下総国古河藩に転封。代わって同地より徳川四天王の本多忠勝の嫡流である本多忠敞が5万石で入封した。3代在封の後、1769年本多氏は三河国岡崎藩へ。代わって同地に転封していた松平(松井)康福が再度55,400石で入封。康福は老中としての精勤を賞され1万石の加増を受けた。3代・康任の時代の1836年竹島を仲介所とする李氏朝鮮・清との密貿易が間宮林蔵の密偵により発覚し、康任は老中を罷免され蟄居されるという竹島事件が起る。このため、次の藩主・康爵は同年に陸奥国棚倉藩へ転封となった。
そこで天保7年上野国館林藩より6代将軍・徳川家宣の弟・越智清武を祖とする松平(越智)斉厚(なりあつ)が6万1千石で入封した。松平清武は後に、最後の徳川秀忠・家光の血筋を引く者となり、8代将軍後継者の一人ともなる人物である。越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の一支系として、親藩・御家門のひとつとなり上野国館林藩をつぎ、1836年石見国浜田藩の藩主となる。

水戸徳川家から養子に入った4代・武聰(たけあきら)は、6歳で1847年藩主となる。水戸斉昭の10男である。兄たちは、5男が鳥取藩主・6男が岡山藩主・7男が15代将軍慶喜である。そして慶応2年(1866年)第二次長州征伐の折、浜田口を担当し、長州藩側の大村益次郎が指揮する軍に撃破される。浜田の街に長州軍が入ったときには、武聰は戦わずして浜田城を放棄し松江城に逃れた。その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えた。この際に、浜田城は灰燼に帰した。

■見所
 
幕末の藩主の父は、尊皇攘夷を唱えた水戸斉昭。攻めてきたのは、尊皇攘夷を実行する長州藩。有名人に囲まれて難しい政局に立ち向かうには若すぎたのか。厳しい逃避行となった。浜田城に関連する幕末の有名人の重みを城跡から感じたい。

石見国の中心の地であり、三方が天然の外堀を形成する要害であった。本丸内には天守以外に櫓はなかった。浜田城全容復元(遺構 石垣)

■特徴

 築城者とされる古田重治は、1619年浜田5万4千石に国替えとなり,1620年から1623年にかけて現在地に築城した。古田重治は、豊臣秀吉に仕えて近江国日野を領した古田重勝の弟です。古田重治は、1595年小田原合戦の軍功により2万石加増され松阪城3万5千石を領し松阪城の大改修を行った。城造りの経験豊富な武将です。関が原の戦いでは、東軍に属し生き残り、松阪は紀州藩領となり、古田家は、浜田に移る。かつて吉川家なども陣屋をおいたとされる鴨山に古田家が新たに築城したものです。
浜田城は、秀吉時代の築城経験を踏まえて、徳川幕府の意向にも留意して古田氏の精一杯の力を込めて築城した自慢の城でした。徳川幕府が安定した時代での築城ゆえ、軍事的機能より、城下の人々にとって力強い領主の存在を広く示す象徴としての、威厳を持った近世城郭を築いた。三方を天然の外堀に囲まれた堅固すぎる名城が完成する。外様大名古田家は、1648年に古田騒動を起こして滅んでいまう。

待ち構えたように1649年播磨国山崎藩より親藩大名松平(松井)康映が5万石で入封。5代にわたって在封の後、1759年下総国古河藩に転封。代わって同地より徳川四天王の本多忠勝の嫡流である本多忠敞が5万石で入封した。
3代在封の後、1769年本多氏は三河国岡崎藩へ。代わって同地に転封していた松平(松井)康福が再度55,400石で入封。康福は老中としての精勤を賞され1万石の加増を受けた。3代・康任の時代の1836年竹島を仲介所とする李氏朝鮮・清との密貿易が間宮林蔵の密偵により発覚し、康任は老中を罷免され蟄居されるという竹島事件が起る。このため、次の藩主・康爵は同年に陸奥国棚倉藩へ転封となった。
そこで天保7年上野国館林藩より6代将軍・徳川家宣の弟・越智清武を祖とする松平(越智)斉厚(なりあつ)が6万1千石で入封した。
松平清武は後に、最後の徳川秀忠・家光の血筋を引く者となり、8代将軍後継者の一人ともなる人物である。越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の一支系として、親藩・御家門のひとつとなり上野国館林藩をつぎ、1836年石見国浜田藩の藩主となる。

水戸徳川家から養子に入った4代・武聰(たけあきら)は、6歳で1847年藩主となる。水戸斉昭の10男である。兄たちは、5男が鳥取藩主・6男が岡山藩主・7男が15代将軍慶喜である。そして慶応2年(1866年)第二次長州征伐の折、浜田口を担当し、長州藩側の大村益次郎が指揮する軍に撃破される。
浜田の街に長州軍が入ったときには、武聰は戦わずして浜田城を放棄し松江城に逃れた。その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えた。この際に、浜田城は灰燼に帰した。

■見所
 
幕末の藩主の父は、尊皇攘夷を唱えた水戸斉昭。攻めてきたのは、尊皇攘夷を実行する長州藩。有名人に囲まれて難しい政局に立ち向かうには若すぎたのか。厳しい逃避行となった。浜田城に関連する幕末の有名人の重みを城跡から感じたい。