萩城
築城年 慶長13年(1608)
幕末(慶応3年)の城主 毛利大膳大夫敬親
石高 36万9000石余
所在地 山口県萩市堀内
三方を日本海に囲まれた天然の要害指月山を中心に築いた大城郭である。
築城時から抱き続けた倒幕の思いは明治維新の震源地となる
■CG復元 萩城
日本海に面する阿武川デルタの根元を横断し外堀とし、その外を城下町とし内を城郭とした。外堀の内に三の丸を置き、中堀を掘って二の丸を設け、二の丸の内側に内堀をめぐらして本丸を指月山麓に構えた。さらに指月山(標高143メートル)には詰丸を設けている。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。本丸には高さ14,5メートルの五層の天守があり、その石垣はすそは緩く上に行くにしたがって反り上がっている。この石垣の勾配は、優美さを誇っている。
周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と附属建物があった。萩城本丸・二の丸復元(遺構 石垣・堀)
■特徴
関ヶ原の戦いで西軍の総大将となり、敗れた毛利輝元は、周防・長門2カ国36万9000石に削封され、新たに城を築くこととなる。毛利氏の富強を望まぬ幕府が認可したのが萩の地であ
った。1604年築城に着手し4年後の1608年に至って完成した。
萩城下は、日本海に注ぐ阿武川支流橋本川と松本川に囲まれた三角州上に、三方を海に囲まれた天然の要害指月山を中心に築いた大城郭である。山名をとって指月城とも呼ばれた。
築城当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主が幼少のため、築城後も政務を執っていた。
初代藩主毛利秀就は、徳川家康の孫で2代将軍秀忠の養女喜佐姫と婚姻する。夫婦仲良く、2代藩主となる綱広が生まれる。
豊臣ゆかりの外様の雄藩ゆえ改易の危険にさらされていたが、徳川家との縁籍には成功する。
また戦いを恐れないが、目立たないやさしい城造りに表れるように、硬軟使い分けての、輝元・秀就・綱広による懸命な努力により、徳川幕府への忠誠心と統治能力の優秀さを示し毛利家は安泰となって幕末を迎えることとなる。
1863年第13代藩主敬親が藩府を山口に移転するまでの260年間、防長両国政治の中心であり明治維新には大きな役割を果たした重要拠点にもなる。
この地で徳川への怨念を燃やしつづけ、倒幕の策が練られ明治維新の震源地となった。1874年建物の全てが解体された。
■見所
幕末に、毛利家は、萩では海上からの諸外国による攻撃に対し防備ができないと、山口に去ってしまって、さびしい城になってしまった。広島から、勢力を伸ばした毛利氏にとって、萩の地は、押し付けられた地、いつかは山口へ、広島へそして江戸へと思い続けたのだろう。萩で培った倒幕の思いは、山口で実り、そして多くの人々が東京に移り、新政府の要職を占めることとなる。
優しさの中にある強さを感じる城だ。
しかし歴史の通過点だけの萩城にはしたくない。厳しい自然環境のなかに美しくひっそり存在する大城郭。変革の嵐の予兆を感じたい。