府内城
築城年 慶長2年(1597)
幕末(慶応3年)の城主 松平近説
所在地 大分県大分市荷揚町
石高 22000石
名門大友家が統治し居城があったころ城下町は最盛期を迎える
石田三成の義弟が名城を築くが徳川時代は譜代小大名の統治となり維持が大変だった
■CG復元 府内城
本丸北東隅の四重四階の天守、北西側には、山里丸があった。山里丸は、茶の湯や能、月見など諸芸能を行う特別な場所で、山里丸を備えていたことは、府内城は、12万石の風格をもった名城だった。山里丸と西ノ丸との間の堀には、廊下橋が架けられていました。府内城全容復元(遺構 宗門櫓・人質櫓・石垣)
■特徴
豊後守護大名だった大友義統が豊臣秀吉により改易されると、豊後(ぶんご)は朝鮮の役で戦功のあった諸大名に分け与えられた。1597年、石田三成の妹婿福原直高が豊後臼杵より12万石で入封し、新城を築いたのが、現在の府内城だ。天下統一を果たした豊臣秀吉の威光を示す、近世城郭として堅固な城を築いた。関ヶ
原の戦いの後、西軍の福原氏は去り、竹中重利(竹中半兵衛の子)が豊後高田より25000石で入封し、築城工事を引き継いで城を完成させた。竹中氏、日根野氏と城主は替わり、結局1658年に徳川一族である譜代大名松平(大給)忠昭が豊後高松より22000石で入封。以後松平氏が明治まで10代続いた。
九州北東部に位置する現在の大分県は、旧国の豊後と豊前東部を含む地域である。江戸時代の幕末段階には8藩7領に分割されていた。8藩の内容は現在の中津市を主体とする奥平氏10万石の中津藩、杵築市を主体とする能見松平氏3.2万石の杵築藩、速見郡日出町を主体とする木下氏2.5万石の日出藩、大分市を主体とする大給松平氏2.2万石の府内藩、玖珠郡玖珠町を主体とする久留島氏1.2万石の森藩、臼杵市を主体とする稲葉氏5万石の臼杵藩、佐伯市を主体とする毛利氏2万石の佐伯藩、竹田市を主体とする中川氏7万石の岡藩で、県下には8つの近世城郭と城下町が存在した。
■見所
この地大分市の有名人は、21代大友義鎮(宗麟=1530〜1587)。近世城郭が築かれる前の、統治者だ。このとき名門大友家と城下町は最盛期を迎える。宗麟の時に最盛期を迎えた大友氏は、22代大友義統の時期になると急速に衰退を迎えることになる。(1593)年、義統は文禄の役における朝鮮半島での失態を理由に豊臣秀吉より豊後国を改易される。
この後、直ちに太閤検地が実施され、秀吉は豊後国を自らの直轄地(太閤蔵入地)として、豊臣系の武将達を大名兼蔵入地代官として各地へ入部させることになる。
大友家の統治力・経済力が大きすぎたため以後分割統治が続くことになる。府内(現大分市)の地が力を持つことが脅威だったのを感じられる。現在は、ビルの谷間にひっそりと府内城がある。堀からの眺めはお城だけれど、本丸内に入ると市民会館・駐車場があり不自然で寂しいお城である。海に面し、貿易港として栄えた往時の賑わいをお城の周りを歩いていけば感じことができる