江戸城
築城年 慶長11年(1606)
幕末(慶応3年)の城主 徳川内大臣慶喜
所在地 東京都千代田区
石高 幕府直轄
天下一の巨城。
天下一の城下町江戸の街の人口は元禄時代から100万人を超えたとされている
■CG復元 江戸城
本丸南に建てられたと推定される家康江戸城天守を復元。慶長十三年江戸図によると1.2階が同じ大きさで、二重目には大きな入母屋破風を設けた望楼型天守であったらしい。天守入り口は後世とは逆の北側にあったらしい。秀忠時代の天守は層塔型の五重五階天守を復元。各重には千鳥破風が整然と並び、均整の取れた美しい外観を見せる。外壁は白漆喰の塗籠(ぬりごめ)で、最上階の屋根は銅瓦。地階入り口の扉は鉄板張り。家光の層塔型の五重五階天守を復元。外壁は黒塗りの銅板張りで、屋根も総銅瓦葺。四階には唐破風造りの出窓が加えられて窓も少し大きくなっている。華やかな寛永時の江戸城・幕末近い弘化度の江戸城復元。(遺構 富士見櫓・巽櫓・伏見櫓・外桜田門・清水門・田安門・天守台・水掘・石垣)
■特徴
家康は豊臣政権の大老である間は、天守には無関心であり、江戸城にも天守は建てられなかった。その家康が慶長12年(1607)江戸城に天守を建てた。それまで全国最大を誇った豊臣大坂城の2倍の床面積を持つ巨大天守であったらしい。徳川将軍家の権威が大坂城の秀吉の遺児秀頼よりはるかに超越するものであることを諸大名に思い知らせるために、巨大で真っ白な雪山のような天守が築かれた。
元和8年(1623)徳川秀忠によって江戸城本丸は北側に拡張され、そこに新しい天守が建造された。父家康が建てた江戸城天守を解体して、新しく天守を建てたのだ。家康の天守より一回り1階が大きく、その一階床面積は、現存最大の姫路城天守の一階床面積の2・3倍にもなった。
その白亜の天守は江戸の中心に聳え、諸大名を強烈に威圧することになった。
寛永15年(1638)徳川家光によって江戸城最後の天守が築かれる。江戸城の完成期。日本最大の城郭であり城下町を囲む総構えは壮大であり、三十六見附の城門が置かれ、江戸に入る人々に将軍の権威を印象付けた。江戸城天守は、家康が創建したものを、二代将軍秀忠が建て直し、三代将軍家光が再び造り直し、都合3度も造られたという特異な天守。父秀忠の建てた天守をわずか15年で建て直している。父秀忠の天守と大きさや形状がよく似ているので、新築ではなく、解体の上、改造再建されたものらしい。家光の天守は高さにおいても史上最大で天守台石垣と天守本体の高さ合わせて58.6mもあった。
■見所
天下一の巨城。
天下一の城下町江戸の街の人口は元禄時代を境に100万人を超えたとされている
将軍様のお城であり、現在は天皇家のお住まいでもある。
今の東京の果たす役割を思うと、徳川家の先見の明が知られる。
徳川幕府が、開かれて 家康・秀忠・家光・家継4代の将軍が築き上げた大城郭。
関ヶ原の戦いの後、急激に伸び、整備されていく江戸城。そして日本一の都市が生まれる。
でも幕末には、維持さえもままならないさびしい江戸城となっていく。時代の移り変わりを感じる。
城下町は変わらぬ活気をもって、多くの人々を包み込んでいったが。
今が一番、多くの人が憩う城となったのではないか。
桜吹雪の中で江戸城の大きさ・迫力を感じる。