江戸城
概要
築城年 1604年から1636年
築城主 徳川家康
幕末の城主 徳川慶喜
所在地 東京都千代田区
石高 幕府直轄
天下一の巨城。
天下一の城下町、江戸の人口は元禄時代から100万人を超えたとされている。
■葵三代 三天守。
天守は江戸城に限らず城の象徴的存在で、そうそう建て替えられる代物ではない。
しかし江戸城天守は3度も建て替えられた。
1607年、本丸南に建てられたと推定される家康天守が完成する。
天守入り口は後世とは逆の北側にあったらしい。(慶長十三年江戸図)
しかし、家康死後、秀忠は築後わずか16年の日本最大の建築物を壊してしまう。
石垣の傷み、位置が不便と理由はつくが、致命的損傷があったとは記録されていない。
本丸北側に移った秀忠天守は合理的で均整の取れた美しい外観を見せ、
1623年、完成する。
千鳥破風が整然と並び外壁は白漆喰の塗籠(ぬりごめ)で、最上階の屋根は銅瓦だ。
続いて秀忠死後、3代将軍家光は、わずか築後15年の秀忠天守を解体した。
慎重な秀忠が築城した天守ゆえ、まだびくともしていないが維持する為の補修は要した。
石垣はそのままで使用し、上物は解体した部材を再使用し建てた。
1638年、家光天守が外壁は黒塗りの銅板張り、屋根も総銅瓦葺、と変わり完成する。
四階には唐破風造りの出窓が加えられて、窓も少し大きくなり、重厚感と華麗さが増す。
天守台石垣は14m、天守本体が45mと秀忠天守よりわずかに高い史上最大の巨大天守だ。
■無駄な投資か
…親子の断絶か
巨費を投じて築き上げた天守が明確な根拠なしに三度も建て替えられた江戸城に
なにがあったのだろう。
家康・秀忠・家光の親子関係には、怨念も感じる深い溝が存在していたのだろうか。
偉業を成し遂げた将軍が理屈で割り切れない感情に突き動かされた結果であったのだろうか。
しかし、それ以上に巨大な戦争エネルギーの解消は各政権にとって焦眉の課題であった。
平和時における政権基盤を盤石にするには、上洛や日光参詣の大軍事行進と並び、
「三代 三天守」をもって徳川宗家の威光を満天下に示した。
■大天守は平和国家の礎
「三代 三天守」に徳川家の比類なき威光を重ね合わせてみた諸大名はむろんのこと、
海外の諸勢力も大いに威圧した。雲を貫くの超高層建築、最新鋭の巨大軍事要塞。
南蛮人もびっくりしたに違いない。
砲艦外交ならぬ「大天守外交」の勝利であった。
天守が三代に渡り三回も建て替えられることは、かくして政治=軍事的に、
内外に抜群の効果を発揮した。無駄どころか、案外安い買い物であった。
きな臭い雲行きも霧散し、その後の「非武装中立平和国家」の礎となった。
1657年の明暦の大火で家光の大天守は焼失し、再建されることなく現在に至っている。
時代を経て一大名では出来ない天下普請での公共事業を始める。
駿河台付近の神田山を崩して日比谷入江を埋め立てて、道三堀を延長し日本橋川とした。
直接海に面する事なく川を通じて資材の搬入を行う為に堀・川を改修する大土木工事だ。
壮大な計画だが家康が考える以上に、各大名が知恵を出し合い競い合い協力し工事した。
数多くの大名が手伝い普請を命じられ、工事区間を割り当てられ、工事に取りかかる。
各大名は、幕府に認められようと、自主的に割り当て以上の人夫を出す総力戦となる。
戦争のプロ達はこぞって土建業に精を出す。軍事編成のまま建設工事に没頭する。
かくして戦争のエネルギーは築城工事に昇華した。
海に向け干拓事業を進め土地を拡げる発想が限界の時代、入り江を埋め立て城下とした。
こうして水運を確保し江戸城築城は進み、放射線状に伸びる城下を持つ巨大都市となる。
■「非武装中立平和国家」と大奥…巨大な女性だけの役所兼宿舎
大奥という名称は江戸城だけで使われ、千人を超す女性が主体となり働く将軍の私的な住まいだ。
奥女中は着飾り動きの少ない気取った雰囲気に見えるが、勤務後の住まいは長局になる。
細かい職制があり広さ間取り等は変わるが、お局ごとに屋根裏付き3LDKの部屋を持つ。
お局様以下、侍女や下女が付き、台所・風呂・便所の備わった仕切られた空間を持つ。
水回りも全て各部屋で行われ、屋根裏に下女が住み、忙しく肉体労働もこなしていく。
お局様が大奥勤務で留守の間に水くみから炊事・掃除・洗濯すべてをこなすのだ。
と言っても皆24時間勤務で、お局様は8時間勤務で戻ってくるので、側に居る時も多い。
仕事が済めば、読み書き・裁縫・和歌から謡まで全ての教養を学ぶ機会が与えられる。
もちろん同じ部屋でお局様の指示で行われるのだが、皆、余暇を楽しみに懸命に働く。
軍事要塞のなかの平和な生活が見えてくる。
平和な政権=「非武装中立平和国家」と大奥、密接不可分の関係である。
他の城にない大奥に注目すれば江戸城が見えてくる。その先に往時の日本が見える。

