会津若松城
■概要
築城主 蒲生氏郷(がもう うじさと) 1556年-1595年3月17日
築城年 1590年から1593年
幕末の城主 松平容保(まつだいら かたもり)1836年2月15日-1893年12月5日
所在地 福島県会津若松市
幕末の石高 23万石
天下人秀吉の威光を示すため、石垣の少ない東国で石垣を多用した贅沢な近世城郭。
本丸・本丸の三方に馬出しのあるバランスのいい美しい形状の縄張り。
天守を核に総構えの中に武家屋敷を配置し、その外には町屋を配した、広大な戦う城。
1384年蘆名(あしな)氏が黒川城(会津若松城)を築き、波乱に満ちた歴史が始まる。
蘆名氏最盛期を築いた盛氏は、会津地方を支配し巨大な権力と富で黒川城を拡張した。
だが蘆名氏の栄光もここまでで、伊達政宗が自らの居城としたくて襲いかかる。
ついに1589年政宗は蘆名義広を攻め落とし、黒川城(会津若松城)主となる。
ところが、秀吉は1590年政宗を追い出し、奥州平定後の押さえとして蒲生氏郷に与える。
ここから今日に繋がる会津若松城が出来ていく。
蒲生氏郷は92万石の居城にふさわしい大城郭、奥羽一の商業都市となる城下町を築く。
しかし治世は短く氏郷は5年後亡くなり、嫡男秀行に引き継ぐが3年後宇都宮に移された。
次に秀吉政権の5大老の1人上杉景勝が120万石を得て越後から会津入りする。
氏郷は故郷近江、前の領地伊勢松坂で、城下町の振興に力を発揮し、知識を得ていた。
そして、39歳の死まで、商都若松を築く為、渾身の力を振り絞った。
商人を招き、漆器や酒造など産業の育成に力を注ぎ、見る見る活気ある城下町が出来た。
秀吉の大坂城に匹敵する、5重5階地下2階の天守がそびえる近世城郭が築かれる。
氏郷が天守に登り、会津盆地を見渡して、領民の賑わいに満足する様子を見る時は短い。
氏郷亡き後、秀吉が冬姫を側室に望み拒否され、蒲生家は宇都宮に左遷されたと言う。
織田家の栄枯盛衰を知る、冬姫は我が子や蒲生家の安泰の為なら命も差し出す決意だ。
氏郷の妻冬姫は織田信長の娘であり、氏郷の妹三条殿は才女の誉れ高い、秀吉の側室だ。
冬姫は信長の死後に幼い三の丸殿を引き取り、成長後は結婚支度し秀吉の側室に送る。
冷静に時には冷たく蒲生家の為に働く冬姫や氏郷を秀吉は優遇し密接な関係にあった。
だが、秀吉は信長と縁が深く秀吉に心底服従せずに同格にも振る舞う氏郷の死を喜んだ。
そして秀吉は蒲生家に見切りを付け、年増の冬姫34歳に関心はなく側室には呼ばれない。
だけど冬姫は落日の蒲生家・豊臣家を静かに見続け、1641年6月17日80歳で大往生する。
京都嵯峨野に暮らす娘夫婦、籍姫と前田利政に見守られ、京都知恩寺瑞林院で出家した。
近くに家康の長男の嫁、姉徳姫が徳川家から高禄を得て住み、身内に囲まれ悠々暮らす。
同時代の岡山城、広島城も似た経緯で築かれたが、秀吉の思いを踏襲する優しさがある。
だが会津若松城は軍事力重視の東国への楔だがそれ以上に大坂城への対抗意識を感じる。
100万石の居城に値する広大な大城郭、領民が息をのむ高層建築の天守が出来る。
ただ復元している会津若松城は氏郷が原型を築くが、完成は加藤嘉明の縄張りでもある。
蒲生氏の松山入りと交代し1627年、加藤嘉明が会津藩40万石若松城主になり移ってきた。
伊予松山藩主として嬉々として松山城の築城を進めていたが、完成を間近に移された。
松山城に心を残しながら移った若松城は築城後35年経ち、天災も重なり無惨な状況だ。
蒲生家は氏郷亡き後、家中は内紛が続き、城の修復が出来ず、加藤家に任されたのだ。
名築城家、嘉明は幕府の意図に不満を感じながらも、血が騒ぎ城の改修に乗り出す。
修復だけでなく、出丸を築き・天守の建て替えなど城郭として新たな縄張りもした。
デジタル大工の復元はこの時改修した嘉明の会津若松城に基づいている。
氏郷の思いを、嘉明の築いた会津若松城で表現する、矛盾と難しさがある。
その後、保科正之が会津藩23万石で入城し会津松平家として幕末まで続く。
大城郭を23万石で守り続けるだけで大変で、修繕のみで改修されることなく今日に至る。
そのため、今、会津若松城を訪れれば、嘉明の築いた往時に想いを馳せる事が出来る。
氏郷の想いを、嘉明の想いを、デジタル大工の会津若松城からも思い起こして欲しい。
戦国の英雄伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝はこの地で秀吉・家康に対抗意識を燃やした。
奥州の会津から、日本全土をめざす気概を持つが、夢半ばでそれぞれの道を行く。
おおらかさの中に緊張感を感じる、武将の命をかけた厳しい歴史が見え隠れする城だ。
桜は蘆名氏の頃から数多く植えられたらしいが、散りゆく桜が似合う名城とする。

